昭和43年8月22日  朝の御理解



  御理解第4節「此方金光大神あって天地金乃神のおかげを受けられるようになった、此方金光大神あって神は世に出たのである、神からも氏子からも両方からの恩人は此方金光大神である、金光大神の言うことにそむかぬよう良く守って信心せよ、まさかのおりには天地金乃神と言うにおよばぬ、金光大神助けてくれと言えばおかげを授けてやる」と、あります。

  ここのところを、を、4節を頂いただけでだいたい金光様の御信心がどういう信心かとまあいうことが分かるような感じですね。
  「金光様とはどういう信心ですか」と、ね、いわゆる、天地の親神様、ね、天地金乃神様のおかげを、教祖金光大神の信心によって、現わされたと言うか、ね、まあ発見されたと言うかね、そしてそれを現わされたわけですね、いわゆる、教祖様の信心、一つの一心が天地に通うた、天地を貫いた、ね、悪神邪神とばかり思うておったね、言わば恐い神様、いわゆるとどい、金神有効の、お~信じられておった時代のことですから、それでもその金神様という方は、あの~、様々な、あ~、ね、力、を持っておられる、知って向かえば命を取り、知らずに向こうても目を取ると言うほどしの、あらたかな力を持ってござる、ね、ですから世の中の難儀といったようなものは、この金神有効に、逆らった者、ね、そういう人達がいわゆる難儀というもの、だから難儀の大元のように思うておった、ね、難儀の言わばここはもう、製造元で、ね、けれども例えばその、そういうあらたかな力を持ってござる神様であるならば、その神様が言われるようにです、しかも実意丁寧にです、真心一心を持ってこの神様に向かわして頂いたら、またうんなら無い命でも助けて下さる、ね、殺す力があるなら生かす力も持ってござるに違いはない、ね、目をつぶしだけ、つぶすだけの力を持ってござるなら、また目を開けて下さる力も持ってござるに違いはない、と例えば当時の、う~、今でもやっぱり金神有効を信じておる人が、現代の日本にはまあほとんどと言うて良いくらいじゃないでしょうかね、結婚をするのに相性を見たり、ね、普請をするのに家相を見たり、ね、(?)を起こす時にもやっぱり良い日柄を選んだり、ね、というような事はやはりその金神有効の説をまだ信じておるんです、日本にはまだ文化が高いとか言うけれども、まだそのように程度が低い、んですよね実を言うと、その事を例えば教祖が百年前に、ここんところを、やはり御信心によって、この悟られた、ね、そういう例えば、え~、あらたかな神様の働きをこちらが実意丁寧神信心によって、そういう神様の、お~、おかげを頂かせたいという願い一念でしか、おありにならない神様であるというものになさった、なさったと言うよりも、もう発見されたと言うですかね、そしてそれを現しておいでられたのが、まあ勿論神の頼みによることでございますけれども、神頼みのまにまに、いわゆる立教神伝をお受けになられて、難儀な氏子の取り次ぎ助けると、助けの御用に専念されたわけなんだ、でそこんところをですね、そこんところを、あの、ここは天地の親神様が言うておられるとこですね、「此方金光大神あって天地の神のおかげが受けられるようになった」とおっしゃっておられる、ね、いや金神様を信心する者もおるけれども、ほんの途中の中途半端の恐い神様というところまでしか信心せん、そこを貫いてござらない、真心一途を持って真心一心を持って「どうぞお向きを変えて下されお向きを変えて下され」という教祖の直向きなその御信心がです、ね、とうとう言わば真実と言うかね、それに金神様がいよいよ向きを変えなさった時には、それは、ね、恐い神様でも何でもない、ただそれこそ悲願溢れるばかりの、氏子かわいいの一念に燃えておられる神様であることが分かった、ねですからやはり金光大神の、御信心によって現れなさったと言っても、良いのです、ね、そこでいわゆる神頼みがあるわけです、ね、「此方のように実意丁寧神信心しておる氏子が、世の中には難儀な氏子がいっぱいあるんだ」と、「世の中の本当の事を知らない、真実の事を知らないで、そこを齷齪として、とうとう有り難いものにも触れられず、幸せにもなれずに、果て終わって行く人がどのくらいあるやら分からんのだ」と、「どうぞ金光大神の取り次ぎによって、取り次ぎ助けてやってくれよ」とこう、いう神頼みが立教神伝ですね、「此方金光大神あって神は世に出たのである」まさしくそうである、此方金光大神あってまさしく、神様は世に出られたのである、そこで、なら「神からも氏子からも両方からの恩人は此方金光大神である」とこう、ね、もうこれは最高の信頼と誉め言葉ですね、神、天地の親神様が金光大神に対する、ね、金光大神に対するところの、教祖様へ対するところの、もう最高の信頼、ね、同時に誉めたたえておられる言葉とも思われます、ね。
  「神からも氏子からも両方からの恩人は此方金光大神である」ね、そこんところまで皆さん一つ分かったでしょ、ね、私共が拝んでおるところの、天地金乃神様っという神様が、どういう、う~、御性格と言うかね、御性質と言うか、いわゆる天地の心が、ね、どういう心のお方であるかということが分かる、ね、まるほど、目を取り、命を取りなさった時代もあった、けれども氏子の真実心を求め求めてのことであった、人間が真実幸せになるためには、真実にならなければなれないのだ、ね、「こうしてなら分かってくれるであろうか」「ああも言うたなら分かってくれるであろうか」という病むに病まれぬ、その神様の思いがですね、場合には目を取り命を取りということにまでなったんだ、ね、それを私共は過去、それこそ何千年か何万年か分かりませんけれどもですね、その金神有効のところまでは分かった、金神様、そのそういう働きがあることは分かった、だからそれを一つの、法則の裏をかくとでも申しましょうかね、その金神様をこう封じ込むと言うか、避けて通ると言うか、ね、いわゆる金神避けと言ったような、まじない的なことを祈って、その金神の、働きを阻止しようとした、ね、ですからそこらへんを大変、信心を頂くならば分からなければならんところですね、例えばふきまじないと言ったようなことでもですね、やはり効果が無い事はないわけですよね、ね、金神様、金神避けといったようなことも、だからその、直接の、お~、目の前、目の前の事からぬけるためには、まあいくらか効果があるかもしれませんね、だからそこに一つの学問になっておるですね、例えば家相とか、ね、え~、日柄の良いとか悪いとかといったようなことでも、あの暦なんかに現れておるのは、あれは一つの学問に系統だてられた、けたいっ、結果答えが出ておるわけなんですよ、ね、だから金光様の御信心はそういうようなものを無視するというのじゃないです、ね、それもあるんだと、ね、けれどもここんところ真実一つで打ち向かえばそこのまいっちょ向こうに、天地金乃神様のおかげが受けられるというのである、ね、天地金乃神様のその向こうに、言わば、いわゆる、ね、自由無下とでも申しましょうか、ね、言わば、あ~、「天地の中に神様の御恩徳に漏れるとことはなきことぞ」とおっしゃるようにね、もう神様のお懐の中で生活が出来る、言わば親の懐の中で自由自在のことができる、そういう世界を、言うなら顕現された、現わされた、ね、だからそこへ通りぬける、そこんところを一つ皆さんも分からなきゃいけませんね、だからまんざら、その迷信、嘘とばかりは言えないわけなんですよね、家相を見たり、ね、日柄を見たりするのも、ね、けれどもそれでは、ね、その場その場の例えばおかげじゃなくても、人間真実の幸せには繋がらないということ、ね。
  昨日一昨日でしたか、東京の小西さんが、こちらへみえておって、丁度十日ほどおられて帰られて最後に、あの、お別れのご挨拶にみえた、そして話しておられるのを聞きましたら、え~、今のまあね三井三菱と言やぁ今の財閥と言われておる、その三井三菱とでも肩を並べると言うほどに十年間あまりでそういう勢力を作った害を作ったと言う人があった、あれは何とかと、(?)さん知ってたの?何とか言う人、うん、木下さんか、それはやっぱり小西さんの色んな商売の上の関係があった方なんですけれどね、それはもう大変なことだったらしいですね、ね、それがなら十年の間にですね、その、まあ没落同様になられたと言う、まあ今世、おぉ、分際者という感じですね、ね、それがですねもう最後のあそこの何年間かというものはですね、一つのまあ霊能者とでも言うでしょうかね、その、日柄方角なんか見たりする人、もうもう自分の動きの全てをですね、自分の動きの全てをその人の言う通~りに動かれたんですこの人、うん、病気をして、(?)されるとですね、方角が悪いと言うたらその方角の良い方へ変られたんです、ね、茶室を造られた、もうその茶室の方角が悪かったらもうそれこそ大変な金をかけられて造られたのを壊してしまわれて、また新たな所で造られたというようにもうそれこそ、結局そういうことになりますとですね、人間のこの動きというものがもういよいよ窮屈になってくるんですよ、言わばこの広い自由な天地をですね、狭いものにしてしまうわけなんです、そうでしょうが、結婚する、はぁ心と心を見合わせて、本当に心が通うた、けれども年回りが悪かけんでそれこそまあ好きで好かれてという仲であってもそれを裂かなければならないというような悲劇が起きてくるわけですよ、相性が悪かけんで、たったそれだけなんだ、年回りが悪いけんで、ね、家を建てるでもそうです、ここに炊事場を造りここに井戸を掘ればです、もう本当に使いがってが良いのだけれども、「どうも家相の上ではここに便所を造っちゃいかん、ここに炊事場を造っちゃいかん」と言われるから、もうとんでもない所にその便所を持ってきたり井戸を持ってきたりしなきゃならんわけです、こげな窮屈な話しがあるもんですか、まあそれは一つ(?)もんじゃないですね、そういう例は沢山私共はそのために窮屈な、言わば広い天地を狭くしてしまっておる、そういうものじゃないということ、ね、ですから、そういうようなことがですね、もう例えば金光大神の信心によってなくなってしまった、そういうことではなくなってしまったと言うよりも、そういう事よりももっと大事なこと、ね、ここに大きな疑いが信心の悟りを開いてから、ね、天地の親神様のおかげを受ければ、そういうことはないということを教えられた、ね、「金光大神の言う事を背かぬように良く守って信心せよ、まさかのおりには天地金乃神と言うにおよばん、金光大神助けてくれと言えば、助けてやる、おかげを授けてやる」とこうおっしゃっておられるのである、ね、ですからこの御理解4節は私が今、その、分かって頂きたいために、言うと、ここんところまで申しましたんですけれども、これは言わば金光大神の、おぉ説明ですね、天地金乃神という方がどういう方であるか、金光大神がそこの、お、どういう働きをなさった方か、ね、いわゆる神様の言葉をかって言うと「此方金光大神あって神が世に出た」のであり、してみれば「氏子からも神からも両方からの恩人は此方金光大神である」というような、ことをまあ皆さんが分かられ、説明を受けられたわけなんですね、そこでこの御理解4節をこう一遍通り読んでみてから、どこが一番大事なのか?ね、どこが頂きどころか?と、なるほどこういう説明は他の(?)で、どこででも出来よるわけですけれども、ならここの説明的なところだけではこのみ教えは何にもならない、そういうことが分かっただけでは、そこで皆さんこの御理解を頂かれて、「はあぁそこだ、ここだ」というような感じを受けられるとこはなかったでしょうか、どこを頂いたらいわゆるおかげになるか、ね、「金光大神助けてくれと言えば」まさかの時にはですよ、「まさかの時には天地金乃神と言うにおよばん」ね、「金光大神助けてくれと言えばおかげを授けてやる」とおっしゃる、だからここにきだけを頂く人がありますね、まさかの時は「金光様ぁ~」っとうわけ、ね、それはまあしっかり信心しよりゃ、出てきますよね、金光様は出てきます、ね、例えて申しますと、お~、御神訓の中に、「今月今日で一心に頼めい おかげは和賀心にある」というところがありますね、今月今日で一心に頼むというところは皆が出来るんだけれどもね、「おかげは和賀心にあり」とおっしゃるから、本気で和賀心にならせて頂こうというところには一生懸命にならない、今月今日一心に頼むことだけは毎日毎日一心にお願いしよる、けれども和賀心になるところ、和賀心になることは、願わない、またそれに努力しない、これではその、おかげ、なら「和賀心におかげがある」とおっしゃ、「おかげがある」とおっしゃっても、それではおかげを受けられないわけです、ならここだって同じことです、ね、まさかの時には「金光様ぁ」で助かる、と言うわけにはいかんのです、それではならどこを一番大事にしたら良いかということなんだ、ねこのみ教えを頂かれて、皆さんどう思われた、金光様の説明を受けられた、金光教の言わば出来たのはどういうわけか分かった、天地の親神様の御性格も分かった、金光大神という方は神からの氏子からも両方からの恩人であることも分かった、ね、なら残したところはどこかと言うと、ここんところでしょうが、ね「金光大神の言う事に背かぬよう良く守って信心せよ」とあります、金光大神の言う事に背かず、お互い背きよらんか、ね、金光大神の言うて下さることに背かず、ね、そこを良く守って信心、守って信心せにゃいかん、ね、だからこそまさかのおりには天地金乃神と言うにおよばんのであります、日頃金光大神の言う事を良く守って信心さして頂いておるから、まさかのおりには天地金乃神と言うにおよばん、金光大神助けてくれと言やぁ助けてやる、おかげを授けてやるとことになるのです、なら金光大神に言う事に背いてばぁっかりおっ、守りもせんでおいてから、ね、ただおかげを頂くというのは、今月今日で一心に頼めというその今月今日一心に頼んでおるけれども、和賀心になっ、(?)ということと同じ事なのだ、そこでならこの御理解4節の一番の頂きとっ、頂きどころは、「金光大神の言う事に背かぬように、良く守って信心せよ」というところにあるのです、ね、だからここだけを、例えば今日は頂きゃ良いわけです、同時にここんところのまあ枝葉と言うわけじゃないけれども、金光教の信心の説明もまあザーっとここの御理解4節で出けたわけですね、ね、例えば天地の中に法則がある、けれどもそれはふきまじない的なことで法則を避けて通ることも出来るというようなことも一つ説明いたしましたですね、金神様、金神封じをしたり、ね、家相を見たり、結婚をするに相性を見たりすることもです、少ぉしぐらいは役に立たんことはないということ、けれどももうそういう例えば専門家を呼んで、自分の一日の動きというものの全部をです、自分の持っておるお店ならお店の動きの全部を、その例えば、その何て言うでしょうかね、易者なら易者さんでしょうかね、の言う通りに動いてもさあそこは人間ですから、十年間で日本の財閥とまで言われるような財をなしておっても、やはり崩壊しなければならないことになっておるのですから、そういうことがあっ、分にも付かんというまではいかんでも、そういうことがいかに、あさはかなことかということが分かります、ね、それよりも天地の心を心として、天地の心を本当に知って、天地の親神様の心を本当に分かって、天地の親神様の心を、ね、金光大神のみ教えに基づいて私共が信心さしてもらう、金光大神にそこんところを、金光大神の言う事に背かぬようにというのである、ね、そこにはまさかのおりには天地金乃神と言うにおよばん金光大神助けてくれと言えばおかげを授けてやると、「金光様、金光様」とこうお縋りをする、ね、一心に頼むだけではいけん、金光大神の言う事に背かぬようにというところの精進が本気でなされてから、金光様でなからなければならんということが分かります、ね。
  御理解4節を頂いてから、金光教の信心の言わば勉強も今日は少し出けたわけですね、と同時に、ね、いわゆるならこの御理解の一番の大切なところは、結局は金光大神の教えて下さることを、本気で守らして頂こう、今日の御理解を頂いて、今日の御理解の頂きどころというものをまず、言わば発見して、ね、今日はこれで行くという生き方になられれば、そのままそれは大坪総一郎が話したのですけれども、それは金光大神が話したのと同じこと、ですから金光大神の言う事を良く守ったわけになる、今日の御理解のここんとこを頂いて、今日一日の生活の上に現していこうというような生き方の中からです、ね、「金光様」と唱えるそこに、「おかげを授けてやる」というおかげが現れてくるようになると思うのでございます。                                               どうぞ。